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言語とアイデンティティ〜マルチリンガルになるということ

今日あるシンガポーリアンと深く話す機会があり、やっぱりそうなんだなーと思ったのでメモしておきます。

私「シンガポーリアンって英語とマンダリンが話せる人が多いけど、どっちが母国語って認識なの?」

シンガポーリアン(S)「私の場合は微妙。家族と話す時も両方使ったりするから」

私「自分にとって、一番気持ちを表現できるのはどっち、ていうのは無いの?」

S「それは難しい質問だね。どっちとも言えないんだ。」

私「それって例えば、中国人が書いた小説も、アメリカ人が書いた小説も、深くは理解できないってこと?」

S「そう。もちろん意味はわかる。でも本当に深い部分の気持ちは組み取れて理解できてない気がするんだ。僕はシンガポールマルチリンガル政策は失敗だと思ってるんだよ」


・・・というお話。

よく帰国子女の方は「自分は何人なのか?」というアイデンティティ問題を抱えると聞きますが、改めて「言語」と「アイデンティティ」は深く結び付いてるなぁと感じます。(このシンガポーリアンはそれほど深い意味で語ったわけではないかもしれませんが)


今日たまたま仕事で通訳の真似ごとのような事をしたのですが、改めて、どれだけ懸命に英語を駆使しても、1つの言語から別な言語に翻訳できる情報量や意味量は限られると感じます。単語そのものは訳せても、その人がその単語にどういう意味や気持ちをこめているかは、その国の文化に相当親しまない限りはやはり分からないのだと思います。

アイデンティティは語源的には「1つであること」という意味で、2つのアイデンティティはありえません。幼いころから2つの言葉を学ぶ、ということは、その人がその人であるというアイデンティティを形成することにリスクをもたらします。より正確に言うと、アイデンティティはあるのですが、それを「言語」によって知覚することが難しくなるといったら良いでしょうか。

この辺の「言語とアイデンティティ」の話に対して自分は興味が尽きないですが、人材育成や組織開発とも密接に結びついています。

自己成長を、「自身の経験を言語に置き変えていくプロセス」と定義するならば、経験から気付いた「感覚知」や「身体知」を置き換える豊富な言語を持ち合わせていないと、経験が自覚的に蓄積されていきづらい事になります。

また、組織開発を、「多様な個人の中に共通知を紡いでいくプロセス」と定義するならば、ぼんやりした共通概念にどういう言葉を当てはめるのかで、意味共有の度合いが異なってくるわけです。母国語が違う人たちが集まるグローバル組織はこれが難しいわけですが、実は日本語の組織でも本質的には同じですね。

・・・というつぶやきでした。