社会的証明の無い世界
最近思う事。
若い頃から「社会的証明を活用せよ」と教わってきました。ファシリテーションでは、既存の学説や偉人の言葉を引用しながらメッセージを伝えることが有効であり、またそれに慣れてきました。
時に自分独自のフレームワークを持ち出すと、「そういうことを言いたいなら、あの学説を参照した方が良い」と先輩に言われたこともあります。そうしたセオリーを用いた方が説得力が出ますし、お金を頂いて人にものを伝える以上は、いい加減なことは言ってはいけないから当然です。
一方で社会的証明に頼りすぎると自分自身のメッセージ力を時に弱めます。「もの知り」は尊敬されますが、影響力があるかどうかはまた別の話。行き過ぎると「あの人は引用ばかり」と揶揄されることもあります。
こないだ先輩経営者に自分のファシリテーションにアドバイスをもらっていて、「あなたのこのメッセージは何かの理論に基づいたものですか?」と尋ねると、「そろそろそういうことを言うのを辞めなさい」と一喝。何かに頼っていては本当に人をリードできるようにはなりません。
男子30半ばも過ぎれば、自分の足で立ち、自分をオーナーとしたメッセージの1つでも出せなくてはダメ、ということと理解しています。もちろんどちらか一方では駄目で、いわゆる「理論と持論のバランス」が大事、という結論もあります。
ただ今はそのバランス論すら嫌悪感を覚えます。すべての社会的証明を一度捨てて、自分自身の生き様だけでメッセージしてみたらどうなる?を試してみたい、と思っている今日この頃です。