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ココロを動かす瞬間に存在する「余白」

アタマとココロ系の続きで、今日は「余白」について書きます。人のココロの成長について考えるとき、「余白」というものが一つのポイントになります。(以前パーソナルブログに書いたエントリーの焼き直しです)


少しイメージしてみてください。ずっと読んできた長い長い小説が、いよいよラストに近づいてきたとします。


もうすぐ終わるのかな?いや、終わってほしくないなぁ・・とドキドキしながらページを繰って行き、ついに訪れた最後の1ページ。最後の一行を読み終えると、そこには大きな「余白」が広がっていて、その広大な空間が物語の「終わり」を改めて実感させます。ラストを迎えてしまったストーリーの余韻を楽しみながらも、ドラマが終わってしまったことがまだ頭の中で受け入れらず、あなたはその真っ白な「余白」をしばし呆然と見つめてしまう。小説などを読んでいてそんな経験をしたことはないでしょうか。



しばらく余白を眺めていると、ストーリーに抱いていた自分の感情が一気に押し寄せてきます。読んでいる途中はストーリーに没入しているので自分の感情を客観的に感じ取る暇がなくても、それが、真っ白な余白を前にすると「ああ自分は悲しかったんだ」などと改めて感じるとともに、その感情がもう一度波のようにドドドっと押し寄せてくる。


昔から不思議に思ってきました。なぜ読んでいる最中ではなく、読み終えた後に感動が押し寄せるのだろう?と。そう思うと、「余白」というのは人の気持ちを動かす何かがあるなぁ、と思うのです。


音楽でも似たようなことを感じることがあります。部屋でCD(最近はCDそのものから聞くことは少ないけど)を流していて、アルバムが一周し終えるとと「ウィーン・・」ていう音がします。まるでCDが小声で「終わりましたよ・・」と言ってくれているかのよう。昔はあの瞬間がとても好きで、「終わった・・・」という感情とともにその音楽を再びかみしめていました。


その後、クラシックギターのコンサートをやるようになりましたが、生の演奏を終えた後にも「余白」があります。音を止めて、拍手が起きるまでのわずか1.5秒くらいがその「余白」です。この余白で、演奏者も観客も、感情が湧きあがってきます。それまで何十小節と奏でてきた音楽たちが、この1.5秒で一気に心に届き、こころがビリビリしびれるのです。


映画でいえば、エンドロールが「余白」に近いと思います。2時間の映画の最後の5分。エンドロールまで座っている人はきっとエンドロールを眺めながら、劇中に感じた自分自身の感情をもう一度きっと味わっているのではないでしょうか。少し名残惜しさを残しつつも、余韻に浸りながらエンドロールを眺めるのはとても贅沢な時間です。あの5分の時間が作品中のどのシーンよりも心を動かしているんじゃないか、と感じることもあります。


「余白」は、人に何かを気付かせてくれるのです。


そこに文字や情報や音がいっぱい詰まっているときは、人の頭はそれを処理することに追われて、感じ取る余裕まではありません。何かを体験しているときにどんな感情だったのか。それは「その時」ではなくて「その後」の余白でわかるのです。つまり、そこに「ある」ときは気付かなくて、「なくなる」と「あった」ことに気づくのです。



何もアートに限らず、僕たちの日常でも「余白」は大切であるし、すでに無意識に取り入れているものです。1日の終わりに、また年末などの節目で、ときどき何もない時間をとって「内省」をする。またはランニングなどがその機会になっている人も多いと思います。忙しい時には気付けなかったようなことに気づけ、自分がしたことに初めて「意味」が与えられる時間が日常の「余白」だと思います。


人が成長していくうえでは、知識や技術を身につけると同時に、ココロが成長していかなくてはいけません。心が育つとは、自分の感情に自覚的になりコントロールできるようになる、ということだとも言えます。大変な日常の中でも余白を設け、「大変だった」「つらかった」という感情を客観的に見つめなおすことで、徐々にその感情を自分でコントロールができるようになっていきます。


人に何かを気付かせてくれる「余白」は、心の成長にとっては大事なポイントだと思います。


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